2025年12月14日。
静岡県沼津市。
愛鷹広域公園多目的競技場。
長い笛が鳴った。
レイラック滋賀FC、J3昇格。
滋賀県に初めて、
Jリーグのクラブが誕生した。
選手たちが走り出す。
抱き合う。
叫ぶ。
泣く。
スタンドからも歓声が降り注いでいた。
その喧騒の中に、
ひとり、立ち尽くす男がいた。
河原一賢。
レイラック滋賀FCのオーナー。
3年前まで、
サッカークラブの経営などしたこともなかった男だった。
選手たちが河原のもとへ集まってくる。
胴上げが始まろうとした、そのときだった。
ひとりの選手が、
一枚の写真を持ってきた。
そこには、
ひとりの女性が笑っていた。
河原の妻、
居原田麗。
2024年1月10日。
42歳でこの世を去った。
河原は、
その遺影を胸に抱いた。
そして、
選手たちの手によって、
空へ舞った。
一度。
二度。
三度。
麗さんも一緒だった。
ずっと見せたかった景色だった。
2023年。
最後にスタジアムへ来たあの日、
あと5分で届かなかった景色だった。
河原は涙を流しながら、
天国にいる妻へ語りかけた。
「約束は、果たせたかな」
その言葉にたどり着くまで、
3年。
いや、
本当はもっと長い物語があった。
これは、
サッカークラブがJリーグへ昇格した話ではない。
ひとりの男が、
愛する人から託されたものを、
最後まで手放さなかった話だ。
何もなかった頃
河原一賢と居原田麗。
後に、
美容医療の世界で知られるクリニックをつくり、
4人の子どもの父と母になり、
そして滋賀県初のJリーグクラブ誕生へつながっていく二人。
けれど、
最初から何かを持っていたわけではなかった。
若かった二人には、
まだ何もなかった。
立派なクリニックもない。
サッカークラブもない。
大きな組織もない。
あるのは、
これからの人生だけだった。
麗は医師として歩き始めた。
美容医療という道を選んだ。
自分自身がコンプレックスを抱え、
それが解消されたことで前向きになれた経験から、
同じように悩む女性の力になりたいと思った。
やがて二人は結婚した。
子どもが生まれた。
そして2011年。
麗は30歳で、
故郷・滋賀県草津市に
「麗ビューティー皮フ科クリニック」を開院する。
決して、
最初から大きなクリニックだったわけではない。
小さな場所から始まった。
医師として診療する麗。
その夢を支える河原。
夫婦で、
少しずつ形にしていった。
患者が増えた。
スタッフが増えた。
家族も増えた。
4人の子どもに恵まれた。
仕事があり、
家族がいる。
忙しい。
でも、
未来がある。
そんな日々だった。
少なくとも、
2020年までは。
「がんだった」
2020年。
麗は38歳だった。
体調に異変があり、
検査を受けた。
結果は、
子宮頸がん。
しかも、
非常にまれで進行の速いタイプだった。
診察室を出たあと、
麗と河原は、
二人で声を上げて泣いたという。
4人の子どもがいた。
まだ小さい。
やりたい仕事もある。
患者もいる。
行きたい場所もある。
家族で過ごしたい時間もある。
まだ、
人生の途中だった。
それでも、
時間は止まらなかった。
麗は治療を始めた。
そして、
自分の病気を隠さなかった。
長年続けていたブログで、
闘病を発信した。
手術。
抗がん剤。
脱毛。
ウィッグ。
再発。
転移。
普通なら、
人に見せたくないかもしれない姿まで、
麗は言葉にした。
自分が頑張ることで、
同じ病気で苦しんでいる誰かの励みになりたい。
そんな思いがあった。
河原は、
その隣にいた。
夫として。
4人の子どもの父として。
そして、
一緒にクリニックをつくってきた同志として。
病気になったからといって、
人生が病気だけになるわけではない。
子どもたちは成長する。
仕事は続く。
患者はやってくる。
朝が来る。
夜が来る。
そして、
また朝が来る。
その日常を、
二人は生き続けた。
滋賀に、何かを残したい
麗には、
強い地元愛があった。
滋賀県が好きだった。
自分を育ててくれた場所。
クリニックを開いた場所。
子どもたちが育っていく場所。
だから、
いつか滋賀に恩返しがしたい。
そんな思いがあった。
その頃、
滋賀県にはまだ、
Jリーグのクラブがなかった。
J1。
J2。
J3。
全国各地にプロサッカークラブが生まれていくなかで、
滋賀にはなかった。
もちろん、
Jリーグを目指して戦っているクラブはあった。
MIOびわこ滋賀。
長くJFLを戦い、
2013年にはJリーグ参入を表明していた。
しかし、
なかなか届かなかった。
2022年。
チームはJFL最下位。
クラブは、
大きな岐路に立っていた。
そのクラブと、
河原たちの人生が交わる。
当時、
麗ビューティー皮フ科クリニックはクラブのスポンサーだった。
クラブ経営への参画という話が、
河原のもとへやってきた。
河原は、
サッカークラブ経営の専門家ではない。
経験もない。
簡単な決断ではなかった。
だから、
麗に相談した。
闘病中だった妻に。
すると、
麗は言った。
「ぜひやろうよ」
滋賀のためになる。
未来の子どもたちのためにもなる。
滋賀にプロサッカークラブができたらいい。
その言葉が、
河原の背中を押した。
2023年。
河原は、
クラブ経営へ踏み込んだ。
「レイラック」
クラブは生まれ変わった。
MIOびわこ滋賀から、
レイラック滋賀FCへ。
「レイ」は、
スペイン語で「王」を意味する言葉。
「ラック」は、
フランス語で「湖」を意味する言葉。
滋賀の象徴、
琵琶湖。
そして河原には、
もうひとつの意味があった。
「レイ」。
妻の名前、
「麗」。
偶然にも重なるその響きに、
河原は思いを込めた。
新しいクラブは、
大きな目標を掲げた。
3年以内に、
Jリーグへ。
2023年。
2024年。
2025年。
期限を決めた。
逃げ道をなくした。
その頃、
麗の病状は、
少しずつ厳しくなっていた。
だから河原にとって、
「3年」という時間は、
ただの経営計画ではなかったのかもしれない。
いつか。
そのうち。
ではなかった。
時間には、
限りがある。
それを、
誰よりも知っていた。
サッカークラブのオーナー
河原は、
サッカー界の人間ではなかった。
だからこそ、
自分に何ができるのかを考えた。
クラブには、
長い歴史がある。
ずっと支えてきた人たちがいる。
そこへ、
外から来た人間が入る。
金だけ出して、
上から指示を出す。
そんなオーナーには、
なりたくなかった。
河原が選んだのは、
選手たちの近くにいることだった。
練習場へ通った。
選手たちと話した。
そして、
練習後のプロテインまで作った。
オーナーが、
プロテインを作る。
普通のクラブなら、
少し不思議な光景だったかもしれない。
でも、
河原にとっては、
それが自分にできることだった。
チームを強くしたい。
それ以上に、
一つにしたかった。
経営者。
スタッフ。
監督。
選手。
サポーター。
スポンサー。
地域。
全員で、
滋賀にJリーグをつくる。
その空気を、
つくりたかった。
1年目
2023年。
前年最下位だったクラブは、
変わり始めた。
Jリーグ経験者を補強した。
チームの環境を整えた。
フロントも動いた。
クラブ史上初めて、
シーズン途中でJFL首位にも立った。
J3クラブライセンス取得へ向け、
スタジアムの問題にも取り組んだ。
仮設照明の整備には、
大きなお金が必要だった。
クラウドファンディングも行った。
ピッチの中だけでは、
Jリーグには行けない。
成績。
スタジアム。
経営。
観客。
地域。
そのすべてが必要だった。
そして、
2023年11月26日。
JFL最終節。
ヴィアティン三重戦。
勝てば、
J3・JFL入れ替え戦へ進める可能性があった。
スタンドには、
麗がいた。
車椅子だった。
病状は進んでいた。
それでも、
来た。
レイラック滋賀を、
見に来た。
あと5分
試合は、
滋賀がリードしていた。
1-0。
時計は進む。
80分。
85分。
あと5分。
このまま終われば。
Jリーグへの扉が、
開くかもしれない。
麗も、
その景色を見ていた。
しかし、
サッカーは、
時々残酷だ。
試合終了間際。
三重に、
同点ゴールを許した。
1-1。
そして、
試合終了。
レイラック滋賀は3位。
入れ替え戦には、
進めなかった。
勝ち点1差だった。
たった、
あと5分だった。
麗がスタジアムで見た、
最後のレイラック滋賀になった。
2024年1月10日
年が明けた。
2024年1月10日。
居原田麗は、
42歳で亡くなった。
4人の子どもを残して。
クリニックを残して。
そして、
レイラック滋賀を残して。
河原は、
妻のブログで、
その死を報告した。
そこには、
麗が生前に話していた
二つのことが書かれていた。
一つ。
麗ビューティー皮フ科クリニックを継続すること。
もう一つ。
レイラック滋賀FCを、
Jリーグにあげること。
「それが私の生きてきた証を残せるから」
麗は、
そう話していたという。
その言葉は、
河原に残った。
妻を失った悲しみと一緒に。
それでも、次のシーズンは来る
サッカーは、
待ってくれない。
どれだけ悲しいことがあっても、
春になれば、
新しいシーズンが始まる。
2024年。
レイラック滋賀の2年目が始まった。
河原にとって、
麗がいない最初のシーズンだった。
スタジアムへ行っても、
もう妻はいない。
練習場へ行っても、
家に帰っても、
いない。
それでも、
クラブは動く。
選手がいる。
スタッフがいる。
サポーターがいる。
そして、
麗との約束がある。
2024年。
レイラック滋賀は、
JFL4位。
また、
届かなかった。
3年計画の、
2年目が終わった。
残されたのは、
あと1年。
3年目
2025年。
3年計画、
最後の年。
もう、
「来年」がない。
この年、
レイラック滋賀は、
JFLで2位に入った。
ついに、
J3・JFL入れ替え戦への切符をつかんだ。
2年前。
残り5分で失った場所。
ようやく、
戻ってきた。
相手は、
J3のアスルクラロ沼津。
第1戦。
滋賀のホーム。
平和堂HATOスタジアム。
3-2。
勝った。
しかし、
まだ終わっていない。
昇格は、
決まっていない。
残り90分。
舞台は、
沼津へ移った。
怖かった
2025年12月14日。
決戦の日。
河原は、
怖かった。
前日の夜も、
眠れないほどだった。
3年間。
クラブに注いできたもの。
選手たちの人生。
スタッフの人生。
サポーターの思い。
滋賀県の悲願。
そして、
妻との約束。
全部が、
90分の向こう側にあった。
でも、
オーナーが怖がっていたら、
チームに伝わる。
だから、
立った。
いつものように。
選手たちを信じて。
最後の90分
前半22分。
レイラック滋賀、
先制。
その2分後。
沼津、
同点。
1-1。
2試合合計では、
滋賀がリードしている。
あと、
66分。
時間が進む。
60分。
70分。
80分。
2023年の記憶が、
頭をよぎったかもしれない。
あの日も、
勝っていた。
あと5分だった。
そして、
追いつかれた。
今度は、
どうなる。
85分。
残り5分。
あの日と、
同じ時間が来る。
86分。
87分。
88分。
89分。
そして——
90分。
長い笛が鳴った。
滋賀県初のJリーグクラブ
レイラック滋賀FC。
J3昇格。
2008年からJFLを戦い続けてきたクラブが、
ついに、
Jリーグへたどり着いた。
滋賀県勢として、
初めてだった。
3年前、
JFL最下位だったクラブ。
そこから、
3位。
4位。
2位。
そして、
Jリーグ。
2023年に掲げた、
「3年以内にJリーグへ」。
本当に、
3年でたどり着いた。
「オーナー、これをどうぞ」
試合後。
選手たちが、
河原を胴上げしようと集まった。
そのとき、
薬真寺孝弥が、
河原に声をかけた。
手には、
麗の遺影があった。
河原が、
試合中は別の場所に置いていたものだった。
選手が、
わざわざ持ってきてくれた。
一緒に、
胴上げしよう。
河原は、
遺影を受け取った。
写真の中で、
麗が笑っていた。
選手たちが、
河原の身体を持ち上げる。
その胸には、
麗がいる。
二人で、
宙を舞った。
あの日、
車椅子で見た最後の試合。
あと5分で、
届かなかった。
その続きを、
ようやく見せることができた。
河原の頭の中は、
真っ白になった。
そして、
涙の中で言った。
「家内にこの景色を見せたいと、
ずっと思っていた」
「これで、
家内との約束は果たせたかな」
本当は、二人で見たかった
もし、
麗が生きていたら。
そんなことを考えても、
答えはない。
きっと、
スタンドにいた。
きっと、
誰よりも喜んだ。
きっと、
泣いた。
そして、
きっと、
笑った。
でも、
その未来は来なかった。
大切な人を失うということは、
何かを達成したからといって、
帳消しになるものではない。
Jリーグへ昇格しても、
麗は帰ってこない。
優勝しても、
J2へ行っても、
J1へ行っても、
それは変わらない。
だから、
これは、
悲しみを乗り越えた話ではない。
河原は、
悲しみを置いてきたわけではない。
抱えたまま、
歩いた。
その先に、
Jリーグがあった。
「ありがとう」
妻が亡くなってから、
もうすぐ2年。
河原の中に、
ひとつの言葉が生まれていた。
「ありがとう」
サッカークラブのオーナーになるなんて、
考えていなかった。
Jリーグを目指して、
これほど多くの人たちと一緒に戦う人生になるとも、
思っていなかった。
きっかけをつくったのは、
麗だった。
「ぜひやろうよ」
あの一言だった。
もし、
あの言葉がなければ。
2025年12月14日の景色は、
なかったかもしれない。
だから、
ありがとう。
人は、何を残していけるのだろう
人は、
いつかいなくなる。
どれだけ愛されていても。
どれだけ必要とされていても。
時間だけは、
止められない。
でも、
人が残した言葉は、
時々、
その人がいなくなったあとも生き続ける。
麗が残した、
「滋賀にプロサッカークラブができたらいい」
という思い。
それを、
河原が受け取った。
河原から、
クラブへ。
クラブから、
選手へ。
選手から、
サポーターへ。
そして、
滋賀の子どもたちへ。
ひとりの女性の思いが、
少しずつ、
たくさんの人の夢になっていった。
これから
レイラック滋賀の物語は、
ここで終わらない。
むしろ、
ここから始まる。
J3。
その先には、
J2がある。
さらに、
J1がある。
いつの日か、
平和堂HATOスタジアムが、
何千、何万という人で埋まる日が来るかもしれない。
滋賀で生まれた子どもが、
レイラックのユニフォームを着て育ち、
「将来、レイラック滋賀の選手になる」
と言う日が来るかもしれない。
その子は、
河原一賢という名前を知らないかもしれない。
居原田麗という女性がいたことも、
知らないかもしれない。
それでもいい。
夢というものは、
そうやって受け継がれていく。
誰が始めたのかさえ、
いつか忘れられるほど、
当たり前の景色になっていく。
それこそが、
本当に何かを残すということなのかもしれない。
2025年12月14日。
沼津。
試合終了後。
河原一賢は、
妻の遺影を抱いて、
空を舞った。
2023年11月。
車椅子の麗に、
最後に見せたレイラック滋賀は、
あと5分で夢を逃したチームだった。
2025年12月。
今度は、
最後まで守った。
滋賀県に、
初めてJリーグクラブが生まれた。
写真の中の麗は、
笑っている。
河原は、
その写真を抱きしめながら、
天国へ問いかけた。
「約束は、果たせたかな」
答えは、
聞こえない。
けれど。
目の前には、
泣いている選手がいた。
笑っているスタッフがいた。
声を枯らしたサポーターがいた。
そして、
滋賀県初のJリーグクラブがあった。
それが、
答えだった。
レイラック滋賀FC。
その名前には、
「レイ」という音がある。
滋賀の湖を背負い、
王を目指すクラブ。
そして、
ひとりの男にとっては、
愛する妻の名前を思わせるクラブ。
これから何年、
何十年と、
このクラブの歴史は続いていく。
その歴史の最初のページには、
きっと、
こんな物語が残る。
愛する人との約束を、
最後まで諦めなかった男がいた。
そして、
その男の背中を押した、
滋賀を愛する女性がいた。
二人が見たかった景色は、
今、
滋賀の日常になろうとしている。